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富賀岡八幡宮
江東区は東京湾の埋め立てにより区域が拡大してきた歴史があります。
高度成長期にごみの集積場として有名になった夢の島などは現在では有明などと並んで
東京のハイソな地域となっています。
木場や砂町などは今は内陸の様相ですが江戸時代は海岸沿い。
浮世絵などをみるとあらためて地形の変遷が実感できます。
本日は江東区に残っている富士塚の一つ
「砂町の富士塚」を訪れました。
豊賀岡八幡宮の一角にあります。
富賀岡八幡宮(とみがおかはちまんぐう)
深川の富岡八幡宮の元宮と言われています
境内には松や桜など合わせて3万本が植えられていたそうです。
その様子は安藤広重の浮世絵「名所江戸百景」の「砂むら元八まん」にて
うかがい知ることができます。
パブリックドメインのHP
砂町の富士塚
本殿の左奥には大きな夏ミカンの木があります。
その脇を進むと立派な富士塚が見えます。
周辺にはマンションなど高い建物が立ち並んでいますがそこそこの規模です。
現在の富士塚は昭和37年に移築されたようですが1833年までの築造です。
ちなみに都内最古の富士塚「千駄ヶ谷の富士塚」が1789年の築造。
昭和30年ころの移築前の様子
説明板の内容は次のとおりです
砂町の富士信仰の象徴
江東区指定有形民俗文化財富賀岡八幡宮の富士塚は、江戸時代末の天保4年(1833)までに富士講のひとつ山吉講によって作られた富士塚です。
江戸時代後半に爆発的に広まり、「江戸八百八講」と称された富士講は、信仰の対象であった富士山のうつしを住居の近くに築きました。
富士塚に登ることによって、本山に登山するのと同じ功徳が得られるものと考えたのです。
砂町の富士塚には頂上に向かう登山口として、正面(西)に吉田口を、背面(東)に大宮口を、右側面(北)に須走口を作っています。
現在では途中までしか行けませんが、中腹を真横に周回できるように中道巡りの道が作られています。右(北)には宝永山を表す小さい高まりを作り、塚の左裾には胎内と呼ぶ横穴を作っています。頂上に登り、富士山の方角を拝すると浅間嶽大日如来碑と対面するようになっています。
塚はもともと30mほど北にありました。当初は土山だったようですが、昭和8年(1933)水害のため形が崩れたので表面を溶岩(伊豆黒ボク石)で固め、昭和37年(1962)現在地に移築されました。
塚に附随している数多くの富士講碑により、現代まで続く富士講の活発な活動をうかがうことができます。
平成18年2月
江東区教育委員会
保存状態はやや危うく「登山道」は険しい箇所があります。
くれぐれも足元には注意してください。
登山道は浮石があります
烏帽子岩と合目岩もあります
頂上からの眺めです。結構な高さです。
境内には富士塚のほか同じ山岳信仰である出羽三山信仰の名残もあります。
スポット名:砂町の富士塚
住所:東京都江東区南砂7-14-18
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都内の富士塚
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